関門海峡にやって来た、トォチャン、長男坊、マナムスメの3人。
下関側の唐戸港より、観光船で巌流島へ。
僅か10分の船旅で、アッサリと上陸する事が出来ました。
写真は、巌流島の桟橋に着いた、我らが観光船「かんもん」19トンと、
対岸の彦島にある、三菱重工下関造船所のドックに停泊中の「さんふらわあ」です。
巌流島の位置と、島内マップはこんな感じ。
下関市公式観光サイトより転載です。
関門海峡の西側にヘバりついた、オレンジ色に塗られた島が巌流島。
本名は「船島」。船の形をしている事からのネーミングだそうです。
埋め立てられて面積が6倍にも膨らみ、、形も変わってしまった模様ですが。。
巌流島から望む関門橋。
その下を、何隻もの船が忙しなく行き来しています。
この海峡の光景は、、、
宮本武蔵、佐々木小次郎、源義経、平宗盛、そして安徳天皇、、、
様々な人々が、それぞれの立場で眺めたのでしょうね。
もちろん、関門橋はありませんですけれど。
上陸後、まず最初に現れる観光スポットが、コチラが舟島神社。
いつ、誰が創建したのかはハッキリしていないそうで、
2002年、大河ドラマ撮影準備中に発掘された2つの岩がご神体。
その後、、、社屋も作られたものの、、
シロアリ被害と台風で、2019年に倒壊してしまったそうです。
これが、ご神体の地鎮大神と龍神大神。
その2柱と、賽銭箱しか存在していません。
「御朱印が欲しかったら、彦島八幡宮に来てね」
そんな看板もありました。
なんだかウスラ寂しいです。。
丘を挟んだ反対側にあったのが、佐々木巌流之碑。
この島で敗死した佐々木小次郎を偲んで1910年に建造されたそうです。
「巌流」というのは、佐々木小次郎の剣術の流派。
それが島の名前にもなりました。
「佐々木巌流之碑」とだけ刻まれ、それも見えにくくなっています。
かつては島の中央にあり、いつのまにかココに移設されたんですって。
しかし、、、勝者の武蔵より、、、、
敗者の小次郎のほうが手厚い扱いを受けているのはナゼでしょう。
門司城代・沼田延元の子孫が1672年に編集した「沼田家記」によれば、
「武蔵は、約束を破って弟子達を連れて上陸し、、
その弟子たちが小次郎をボコボコにして殺してしまった。
小次郎の弟子達からの報復を恐れた武蔵は、沼田延元を頼って門司城に逃げ込み、
豊後に住む武蔵の父親の家まで警護付きで送ってもらった」
とあるそうです。
なんとも哀れですね。
ソレがホントなら、、、そのあたりが手厚くしてもらえた理由かもしれません。
小次郎の碑の後ろの丘が、おそらく島の最高峰になりましょう。
標高は、おそらく10m程度でしょうか。
テッペンへの遊歩道のようなものはありません。
せっかくなので、ヒョイっと登れそうなルートが無いかと探そうとしたら、
「ホンッッットに、そういうの止めて!!」
マナムスメさまがご立腹。。わかりました。。
どうせ、眺望なんぞなさそうですし。。
いかにも「写真を撮ってね!」ってな感じのスポットがありました。
判りました。撮りましょう。
いえいえ、撮らせていただきましょう。
関門橋を挟んで、右が九州、左が本州、、
狭い海峡ですから陸地が重なり合い、、
境目はハッキリ判りません。。
反対側から見ると、船に乗っているように見える訳ですな。
ならば、コチラからも撮らせていただきましょう。
バックは、島にある唯一の建物、、、、
トイレです。いまいち絵にならないですね。
おおっ! 待ってました!
この対決があってこその巌流島ですよ!
この絵は、、、もちろん、アントニオ猪木 VS マサ斎藤!
そんな訳は無いですね。。武蔵対小次郎です。。
でも、猪木とマサ斎藤の対決も、当時は激しく盛り上がり、
巌流島が実在する島である事のアピ-ルには、大いに貢献した事でしょう。
島の観光案内には、いまだに紹介されていますもの。
ムサシとコジローと、、そしてニャース、、、、
ではありません。武蔵、小次郎、マナムスメです。
この像こそが、巌流島のメインの観光スポットでしょうね。
2人のエピソードが無ければ、この島に観光船が来る事も無いでしょうし。
前記の通り、やっぱりココは小次郎びいきの島みたいでして、、、
最初は、小次郎の像しか存在しなかったんですって。
武蔵の像が置かれたのは、小次郎像より4か月遅れ。
やっぱり、遅刻するのが武蔵、、ちょっとベタですね。。
小次郎像が、小次郎ゆかりの地の彫刻家に依頼して造られたものであるのに対し、
武蔵像は、デザインを一般公募されたものだったそうです。
両者の像の目の前に設けられた案内板は、古式ゆかしく巻き物の形。
1612年4月13日に対決が行われ、武蔵が勝利した事。
そして、、、
1987年10月4日に、猪木とマサ斎藤がデスマッチを行った事も刻まれていました。
そううむ。ソチラもも歴史に残ちゃう訳ですか。
そのうち像が出来るかしらん。。
像から見下ろす位置に、朽ち果てた小舟が放置されていました。
マナムスメに
「アレが、武蔵が乗ってきた船だよ」
などと、オヤクソクのように教えていると、、、、
あながち、デタラメでは無かったみたいです。
もちろん、そのまま残っちゃいませんですが、
それを意識して設置されたもので、放置されたものではありません。
これもモニュメントの一種ですね。
それが、次第に朽ち果ててしまったのか、、、
あるいは、意図的に朽ちたように造られたのか。。
さて、どちらでしょうか。
もっとも、勝った武蔵は島を去った訳ですから、
この島に船が残っている訳はありませんですよ。
ならば、、、コレに乗ってきたのが誰かはキマリですね。
もちろんマサ斎藤でしょう。
ソッチかい。。。
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