あれから4年、、、我が家の3・11(東日本大震災)

早いもので、もう4年も経ったのですね。
ワタクシは、インフルエンザで保育園を休だマナムスメと二人で、
自宅で「あの瞬間」を迎えました。
直接的な被害は皆無だった我が家ですが、、、
日本人として、決して忘れてはならない日であった事には間違いありません。
4年前のあの日、、改めて振り返ってみたいと思います。
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●7時頃
午前はカミさん、午後はワタクシが看病係とし、、
ワタクシは未明からシゴト現場に出かけました。
シゴトをパパっと片付け、目の前の東京港を眺めると、、、
さっそうと航行する、「フェリーいしかり」の姿。
名古屋-仙台-苫小牧を結ぶ航路に就航する直前の新造船で、
3/11は東京でプレス向け内覧会、翌日は仙台で内覧会、そんな予定だった模様です。
この後、いしかりは太平洋上で津波と遭遇したのかと思われます。
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●8時頃
アサメシを食べに、人形町のラーメン店「げんまん」へ。
当時は、朝だけ「ど・モーニング」という屋号で店を開いていて、、、
ソコで味噌ラーメンを食べました。
食べてみると、、、、
系列店「ど・みそ」のラーメンそのものですね。。。
詳細:
http://ramendb.supleks.jp/review/326488.html
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●14時頃
カミさんと入れ替わりに、自宅でマナムスメの世話係。
ヒルメシを食べさせ、オヒルネの為に添い寝していたのが、この頃です。
程なくマナムスメは寝付き、、、今のうちに自宅シゴトでも始めようと思ったら、、、

●14時46分
ズガガガガガっときました。
これまで経験した事も無い揺れでしたよ。
そして、いつまでたってもソレが終わらないんです。
しばらく様子を見ていたものの、棚の上のモノが落下し始め、、
コレはキケンだと、寝たままのマナムスメをダッコして外に出たんです。
外では、近所の人が地面に座り込み、、、
停めてあるクルマがユッサユッサと揺れる光景も初めて見ました。
電柱も、倒れてこないかと心配になるほど揺れていて、、、
いったい、どこに行けば安全なのだと、ただただマナムスメを抱きしめる事しか出来ません。

●その数分後
再び、大きな揺れ。
今度は先ほどよりも冷静でしたが、、
それでもマナムスメをダッコして右往左往するのみですって。
揺れが収まり、マナムスメをフトンに寝かすと、、、
ソコで初めて目が覚めたマナムスメ。
「トォチャンが、ゆらしたの?」
そ、そんな事、出来るかぁぁぁ!

●15時頃
テレビをつけ、震源地が東北地方である事が判りました。
「津波の恐れあり」
との事で、アチRチの港の光景が映し出さトいたものの、、、
いずれも、普段と変わらないように見えました。
港に隣接する道路を、フツーにクルマも走っていましたし。
長男坊の通う小学校からデンワがあり
「児童たちは体育館に避難させている。迎えにきてください」
なる連絡がありました。
インフルの幼児がいるので迎えになど行けないですよ。
自力で帰らせてくれと頼んでも受け入れられず、、
結局は、マナムスメを連れて小学校に行くハメに。。。。

●15時半頃
帰宅後、再びテレビを見ると、、、
先ほどまでの映像とはオオチガイで、港に押し寄せる波、流されるクルマ。。
それでも、まさかこのような大災害に繋がるとは予想だにできず、、、
人々は無事に避難を終え、停めていたクルマだけが流されているのかと思いましたですとも。

●16時頃
マナムスメを連れて近所の小児科へ。
もしもの時の為に、長男坊も一緒です。
待合室のテレビに映し出されていた光景は、、、、、
自衛隊が空撮した映像を中心とした、オゾマシい津波の破壊力ですよ。
ものすごい速さで畑やビニールハウスを飲み込み、、、
その前を走って逃げているクルマの姿も、容赦なく目に飛び込んできたんです。
ワタクシは恥ずかしながら、ココで始めて事態の重大さを思い知らされました。
小児科の先生も、もはや治療どころではなくなった感じで、、
悲痛な声を上げながら画面にクギヅケになっていました。
センセイは、その訛りからすると、東北出身だと思われます。

●17時頃
カミさんからデンワ。
カイシャから帰宅命令が出て、これから帰るとの事。
しかし、、、どうやって?
一番乗りのJRを始め、各私鉄も軒並み運転見合わせになっていたからです。
カミさんら女子社員は、営業マンらが社用車に分乗させて送る事になったものの、、
都内は大渋滞で、ピクリとも動かない状態との事です。
社を出て何キロも走らないうち断念し、そのまま引き返してきたクルマもあったんですって。

●20時頃
カミさんからは、時々現在地を知らせるメールが来るものの、、、
ウソみたいに進んでいないんです。
地元出身の営業マンが裏道を駆使し、、それでもマシだったみたいです。
でも、、、大きな川を渡るポイントはどうしようもなく、、
船堀橋を渡るだけで、何時間もかかった事か。。

●22時過ぎ
やっとカミさんが帰ってきました。
カイシャを出てから5時間、、、
まさに、歩いたほうが早かったくらいですよ。。
もちろん、何事も無いフツーの日だった場合ですが。
とにかく、、ありがとう! 営業マン!
彼は、まだ残っている女子社員らを降ろしながら走り続けるそうで、、
ゴールの松戸に着いたのは、果たして何時間後になったのでしょうか。

●その後
モノ不足、ガソリン渋滞、、そんな感じで続く訳ですが、、、
被災地から比べれば、なんて幸せな事でしょう。
何よりも、家族も親戚も無事でしたし。
震災のひと月ほど前に訪問した那珂湊おさかな市場東海テラパークも津波に襲われた模様で、、、
地震の時期がズレていたら、我が家もアブナかったかもしれません。

地震から10日後の春分の日を絡めた3連休、、、
我が家は、震災前から福島県・裏磐梯の宿を予約していて、スキーに出かける計画だったんです。
原発からも震源地からも離れた地域ですし、リフトも運転しているとの情報でした。
もはやスキーという感じではなかったものの、、、
風評被害に立ち向かう意味でも行こうか? なる考えもあったんです。
現実的には、、東北道も一般車通行止めだし、現地での給油も困難であろうし、、
結局は断念するしかなかったんですけどね。
カミさんは「行ったツモリ!!」と言い放ち、、、
そのスキー旅行の費用を、全て被災地に寄付してしまいました。。

我が江戸川区の被害は、こんな感じです。

この記事へのコメント

  • 酒乱

    こんにちは。

    自分もあの日は家にいました。
    天気は雪でした。
    地震の瞬間から停電&断水
    停電は約24時間程、断水は1週間ほど続きました。
    あの夜は毛布にくるまりながらラジオだけが情報源で恐怖の一夜でしたねー。。。
    2015年03月12日 13:14
  • つよぼん

    私はあの時は、娘と2012という地球滅亡のビデオを見ていて、ちようど大津波のシーンがありました。
    終わってテレビに切り替えると、今ビデオに出たままの、シーンがリアルに起こっていました。
    うちの会社でも、11日は復興支援の日として募金活動を行いました。
    まだまだ復興途中ですので、支援は必要ですね。
    2015年03月13日 19:32
  • おぎひま

    酒乱さん、コメントありがとうございます。

    地元は大変でしたでしょうね。
    特にソチラは、原発事故が腹立たしい限りですよ。
    キチンとやっていれば、なかったハズの被害ですから。
    これまでも、そしてこれからも、お疲れ様です。
    2015年03月14日 11:32
  • おぎひま

    つよぼんさん、コメントありがとうございます。

    遠い九州からのご支援、痛み入ります。
    なるほど、バーチャルとリアルが重なっちゃいましたか。
    前者のほうが迫力ある映像なのでしょうけれど、
    リアルなソレは、ホントに恐ろしいですもんね。
    流されているのは、ホンモノの人間なんですから。
    とにかく、ホントにまだまだこれからですね。。
    2015年03月14日 11:36

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Tracked: 2019-03-12 06:25

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